山背古道・山背古道資料館・沿道歴史資料

神戸向け茶商のはじまり 山城茶業史より


 茶は明治初年の村明細帳、明治14年(1881)の地誌をみても「茶は神戸に輸出ス」とあるが、これは木津川を船で下り淀川を経て神戸まで運んだのである。神戸は慶応3年(1868)12月7日開港された。安政6年(1859)に開港された横浜の総輸出価格の第1位が生糸であったのに対して、神戸港は茶が第1位であった。そしてその茶はアメリカ・イギリスなどへ輸出された。
 山城町北河原・椿井・上狛の各村の明治14年の地誌の物産には、製茶とならんで綿があげられているが、これらの土地には江戸時代以来綿花が栽培されていた。山城町新在家には、当地を始め大和・伊勢・近江などからも実綿を買い集め、繰綿(くりわた)・綿糸などをつくり、あるいは綿織物業を江戸時代から従事する者が多くあった。しかしこれらの地域でも製茶業がさかんになるとともに、綿業と兼業して茶商を営むようになった。
 たとえば、2代にわたって綿密な「履歴」を書いた初代大村小兵衛(1839〜92)は次のように記している。
18才ノ時(安政3年)、主人綿屋長兵衛家ヨリ暇ヲ貰イ、給金少々戴キ家ニ帰リシ処、商売スルニモ資本金ナシ。(中略)其ノ時精神一決シ、我ガ家ヲ参百目(匁)ニテ売払ヒ、ソノ金ヲ資本ニ宛、商売ニ取係ル。是レ商売ノ初ナリ。(中略)
20才ノ時(安政5年)、少シ資本金ヲ増シニ付、綿小売行商ヲ初ム
33才ノ時(明治4年)、大村定右衛門、内垣清兵衛殿、3人共同シテ茶商ヲ初メ7、8年間共同ノ商売ヲナス。年々4、500円ノ利益ヲ得。(中略)
39才ノ時(明治10年)ヨリ神戸へ製茶輸送販売ヲ営業ス。初年ハ、2、300個バカリ出荷シ、翌年ハ500個以上モ出荷シ、年々4、500円ノ利益ヲ得。
 このように大村小兵衛は綿屋から出発し、明治4年(1871)に茶商を始め、明治10年(1877)に神戸への輸出むけの茶を営業したが、これは、上狛一般の茶商営業開始の時期と一致していると思われる。
 昭和5年発行の「福寿園茶報」には、当時の古老の話をもとに「上狛茶業史」を記しているが、そのなかに神戸との茶取引についてつぎのように書かれている。
何を云うにも現今のように汽車も無ければ電車もない。伏見までテクって川蒸汽船で大阪に出て、神戸まで又テクったという訳。そして異人を相手に上狛商人固有の手腕を揮って取引したが、今と違って其当時の外国人は誠に気前がよくトントン拍子に商談がまとまるので、上狛へ帰っても鼻が高い。一際の貿易商人気取りで気焔を吐いていた。
 またつぎのように書かれている。
神戸へ行けば儲かると思った土地の人は乃公(われ)も連れて行け、イヤ俺も行くてな調子で、5年後には問屋が8軒となり、仲買人が20人にも増えた。夫れから同20年には問屋が14軒に、仲買人が7、80人の多数にのぼった。神戸通いの連中は悉く懐中工合(ぐあい)がよくなった。ここにおいて、上狛は茶をもって立つという決心がついたのである。

 なお、大村小兵衛は3人共同して茶商を始めたが、当地の茶商は一般的に親類・友人などと共同して経営するのが一つの特徴でもあった。
 当時の貿易は居留地貿易といって、居留地に住む外国商人が独占しており、莫大な利益を収めていた。日本人が関係したのは、商品をその外国商館に売り込むまでであった。これらの外国商館は、居留地に住む屋敷番号をもってその商館の番号とした。たとえば茶の貿易商としては、92番ヘリヤ商会、34番モリヤン・ハイマン商会、3番スミス・ベーカー商会などとよんだ。そして、この外国商館への売込み問屋としては、神戸には山本亀太郎・西口清助・鷲尾磯七・園部住蔵などの各店があった。上狛の茶商は、この売込み問屋へ主として茶を納めたのである。当時綿屋と兼業して茶商に従事していた福井市松も、これらの問屋との引合帳(売買の取引を書いた帳面)を多く残している。
 この福井市松は明治22年(1889)4月に綿商の鑑札を相楽郡役所に返納し、貿易茶の加工・販売に専念することになった。というのは貿易開始とともに、機会で製造された値段の安い綿製品が多量に輸入されて、日本のこれらに関係する産業に大きな打撃をあたえたからである。これに対して、茶業は輸出産業としてますます発展するという動向をいち早く察知したこの地方の人々は、衰退産業の綿業から成長産業の茶業へと移行したのである。

「木津町・加茂町・山城町」は平成19年3月12日に合併し「木津川市」となりました。


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