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居籠祭(いごもりまつり)

居籠祭(いごもりまつり)とは

「シリーズ山城町の文化財」より

 和伎座天乃夫岐売神社(涌出宮)を舞台に、毎年2月15日から3日間にわたって執り行われる居籠祭(いごもりまつり)は、昭和58年に「棚倉の居籠祭」として京都府指定無形民俗文化財の第1号で指定され、のち昭和61年には涌出宮(わきでのみや)の他の宮座行事とともに「涌出宮の宮座行事」として国の重要無形民俗文化財に指定されました。
 涌出宮は、綺田、平尾地区の人々を氏子にもちますが、居籠祭は与力座、古川座、尾崎座、歩射座(びしゃざ)の4つの宮座によって執り行われます。
 神主を補佐して居籠祭をとりしきる役に与力座一老があたります。その他、饗応を受け持つ「いたもと」と「給仕」、呼び使いの「もりまわし」や「七度半(ひつたはん)の使い」の役、「御供(ごく)炊き」の役、「そのいち」と呼ばれるみこ、「ボーヨ」「とも」と呼ぶ幼児の役などに与力座があたります。また、一老の経験者である古老らも、これらの役を助けます。
 古川座は、古川一族の座で、伊勢から下ってきた神を出迎えた一族だとされています。長老10人が素襖(すおう)姿で式に列席します。
 尾崎座は、古川一族の座で、神が伊勢から下ってきたとき、お供した者の子孫だとされています。座衆4人が袴姿で式に列席します。
 歩射座は、居籠祭にあたって警護を受け持ったとされる座で、年長者10人が式に列席します。
 2月に入ると、居籠祭の準備が始まり、11日には涌出宮に与力座衆が集まって祭の役割分担決めと、松苗・おかぎづくりを始めます。この松苗とおかぎは、祭の各座衆と一般参拝者に配られ、春に苗代の水口にまつられます。
 同じ11日に歩射座の当屋でかんじょ縄がつくられます。
 居籠祭前夜の14日の深夜には、与力座の者2人が塚11カ所をまわる「もりまわし」が行われます。これは、祭への神々の招待というべきもので、祭の60日前にあたる12月16日の深夜にも行われます。
 15日には与力座衆によって饗応の儀に使う箸(はし)を15組ほどつくる「箸けずり」と「たいまつづくり」が行われます。この日古川座の当屋でかんじょ縄づくりが行われます。
 さて、15日の夜7時ごろになると、涌出宮に古川座・尾崎座・歩射座の各座衆が集まってきます。拝殿には神殿に向かって中央に古川座、左手に尾崎座、右手に歩射座が座り、神殿の前に神主と与力座一老が座り、「いたもと」の指示で与力座による饗応の儀式が進められます。
 饗応の儀が終了するころ与力座の一人が火打ち石でたいまつに点火し、たいまつの儀が始められます。神主と与力座一老は、たいまつの前に並びます。たいまつの足がはらわれた後、昔はたいまつを引きずりまわしましたが、今はたいまつの一部を門の外に出し、神主が祝詞をあげ、ごまいさんまいを行います。
 この日の深夜、神主が与力座衆の用意した野道具のミニチュアを神殿からささげ、野塚におさめに行きます。この野塚神事は、16日・17日の深夜にも行われ、各日それぞれ違う野塚におさめに行きます。
 16日には歩射座と古川座からかんじょ縄が奉納されます。17日には朝、与力座の古老が集まり、饗応の儀をはじめとする午後の式の準備をし、同時に与力座の一人が古川座衆の総本家に七度半の使いに出向きます。最初のあいさつと、帰りに6回半のあいさつをすることから、このように呼ばれます。
 この日の午後、居籠祭のクライマックスの饗応の儀お田植神事が行われます。午後2時過ぎ、各座衆が15日夜と同じように拝殿に座り、さらに「そのいち」「ボーヨ」「とも」の席も用意されます。15日と同じく、「いたもと」の指示で給仕が進められ、御供と御酒が各座衆らに配られ、終わると「盃ごと」になり三三九度の盃の古い作法を伝える作法で執り行われます。盃をひいた後、膳が古川座衆・神主・そのいちの前に出され、京めしが配られ、汁を出し、最後に湯を出して饗応の儀が終わります。次いでお田植神事が行われます。まず真綿の頭巾をかぶったボーヨが舟を引き、いたもとの一人が曲物(まげもの)をボーヨの頭上にかかげて拝殿を3回まわります。次いで神主が鍬(くわ)を高くかついでもみをまきながら拝殿を3回まわるもみまき。そしてそのいちを中心にボーヨ・ともが松苗で田植をし、その後、ボーヨとともが松苗を、給仕がこかぎを配り、神主によるごまいさんまい、座衆のちょうずで神事が終わります。
 17日の夕刻に与力座衆が門のかんじょ縄を新しいものに取り替え、深夜に御供炊き神事をし、かしの葉に盛りつけられた御供を神殿と涌出宮東側の四ツ塚に供えられます。明け方に四ツ塚を見に出かけ、御供がなくなっていれば、いみこもりの大願が成就したわけで、御供炊きにあたった2人があけの太鼓をたたきながら在所を歩き、居籠が無事終了したことを知らせます。
 江戸時代において居籠祭は、旧暦1月の2の午の日から行われていましたが、時期としてはほぼ今の2月中旬にあたります。
 このように居籠祭は、その年1年の稲作の豊作を予祝する農耕儀礼として、また、中世村落における祭祀の姿を今に伝える大変重要なものとして広く知られています。

伝説と起源

中谷志津枝:山城町老人クラブ連合会「ふるさとの歴史を語る」
より

 「川向かいの祝園と、棚倉とに同じようないごもり祭があるのは、なぜだろう」とは、よく聞かれる質問です。それには次の伝説があります。
 その1、4世紀のころ、祟神天皇の御代に、弟の武埴安彦
(たけはにやすひこ)とその妻の吾田媛が背き、木津川をはさんで対陣しました。この戦乱で安彦は負けて首を切られたが、首は祝園に飛び胴体は棚倉に残りました。戦乱の場となったこの辺りでは、多数の戦死者がでました。
 その後当地と対岸に疫病が大流行したので、里人は戦後の災いを恐れ、斎戒して社頭に集まり祈願したと言い伝えられています。祝園神社では、安彦の首を形どった竹輪を引き合い、湧出宮の大松明
(おたいまつ)は胴体を形どったものと言われ、昔から両方で慰霊のまつりがあったとの言い伝えがあります。
 その2、「戦前の国定教科書の国史の中で、「神武天皇が御東征された時、長すね彦と交戦し賊軍は亡びやがて大和入りを果たされた」との事。かつてこの神話も、いごもり伝説に登場したこともありました。
 その3、村人を困らせた大蛇退治の伝説が起源とも言われています。
 以上のような伝説を持っているいごもり祭は、農耕の神への祈りと一つになって、代々引き継がれ、それに室町時代ごろから、農耕儀礼が加わり、次第に祭の形が整ってきて、今日の祭礼に至ったようです。
 この付近は、湧出の弥生遺跡と呼ばれ、大昔の土器・石器が出土していますが、飢えに苦しんだ古代人たちが、始めて知った稲作の喜びに、ひたすら農作の神をあがめ、五穀豊穣を祈り感謝したことでしょう。
 なお、いごもり祭前の2月15日未明の森回しは、神を山からお迎えし、農耕を守っていただき、12月16日の森回しはそのお役目を果たされた神様を、山へお送りする神事だろうと聞いております。

居籠祭(いごもりまつり)と奇習

中谷志津枝:山城町老人クラブ連合会「ふるさとの歴史を語る」
より

 居籠祭(いごもりまつり)は、その字の示すとおり、氏子の人たちが祭礼中に、いみ籠(こも)りを厳格に守り続けてきたものです。音なしの祭とか、見ざる祭りとか、おまつり奇談などがあります。
 いごもり神事の中では、いくつかの見ざるの祭りがあります。
 森まわし、野塚祭、四つ塚神事がそれです。
 「森まわし」は絶対に見てはならぬ。2月15日未明、東方の山へ神迎えに行き、12月16日深夜には神をお送りする。この使者の与力2人が白装束で鈴を鳴らしながら、山道をたどるので、鈴音を聞いたら、外にいても家に閉じこもる。「姿を見たら目がつぶれる。」とは古老の言い伝えです。
 「野塚祭」。2月15・16・17日の深夜、神主が野塚祭りをするが、見てはならない。祭終了後、塚に納められた野道具(榊の小枝で作った白木のミニチュアの、くわ・すき・まぐわ・からすき)を、人知れず待っていた人が先を争ってたばりに行くということです。
 「御供(ごく)たきと四塚神事」。2月17日の深夜から18日未明にかけて行われるが、絶対に他見できません。身を清めてたきあげた御供を樫の葉にのせて四つ塚にそなえられるが、神意にかなえば、お召し上がりになる。これをもって、めでたく大願成就。そこで明けの太鼓が打ち鳴らされ、村人はこれより平常の生活にもどります。
 ところで、四つ塚の御供えを、神様は、いつどこからこられて、どんなお姿でお召し上がりになっているか見た人はありません。しめなわの中は、人の足跡はおろか鳥獣の足跡さえ見あたりません。いごもり祭の不思議の一つです。

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山背古道・山背古道資料館・沿道歴史資料 '98.2掲載