山背古道探検隊・ただいま活動中・中世山城踏査隊・鹿背山城 


鹿背山(かせやま)城

「けいはんな風土記」(株)同朋舎出版・(財)関西文化学術研究都市推進機構編集より

山並之(ヤマナミノ) 宜国跡(ヨロシキクニト) 川次之(カワナミノ) 立合郷跡(タチアフサトト)
山城之(ヤマシロノ) 鹿背山際爾(カセヤマノマニ) 宮柱(ミヤバシラ) 太敷奉(フトシキタテ)

 と『万葉集』に歌われた鹿背山の山頂には、南山城地方最大の中世山城(やまじろ)、鹿背山城跡が所在している。
 同城の初見史料は、大和の成身院順宣(じょうしんいんじゅんせん)が加世山(鹿背山)に出陣したことを伝える『大乗院寺寺社雑事記』文明11年(1479)10月3日条である。ついで同月21日条では、大和に出陣していた木津氏が加世山に引き退いている。しかし現存する遺構を見ると、とても文明年間の在地領主の城とは考えられないほどの規模と構造を示している。
 『多聞院日記』を見ると、永禄11年(1568)に奈良多聞院輩下の者が三好三人衆の三好政康に攻められて、鹿山城に逃げ込んだとある。同書中にはカセ山と記されている箇所もあることから、この鹿山城こそ鹿背山城のことを指していることはまちがいない。当時、多聞院は松永久秀と同盟関係にあったことから、鹿背山城も松永久秀の城であったと考えられる。おそらく松永久秀は大和多聞院城を本拠として、大和東方に竜王山城を、西方に信貴山城を配するとともに、北方山城方面の押さえとして、木津川を眼下に望む鹿背山城に築城したのであろう。
 西念寺の谷筋道(大手)を登ると、両側の尾根筋が段々になっている。これらは曲輪の跡で、大手から攻め寄せる敵を両方から攻撃できるようになっている。
 大手道を登りつめると、本郭の虎口(こぐち:城の入り口)に到着する。虎口から北へ坂道をあがると本郭へ至る。本郭の虎口は内桝形状となっており、城門内に進入した敵を三方より攻撃できる仕組みになっている。本郭の広さは南北40mを測り、北端と南端には土塁が広がっている。
 本郭の北方は深い絶壁となる。これは自然の谷ではなく堀切である。この巨大な堀切は北方にもう一本設けられている。先の堀切を西へ迂回すると、全国的にも珍しい畝状竪堀群を見ることができる。これは山の斜面を爪でいっかいたように、縦に掘切を数本めぐらすもので、敵が斜面を横移動するのを封鎖する施設である。
 ここでいったん、大手虎口へもどり、南に向かうと二ノ郭、三ノ郭がそれぞれ堀切をへだてて独立して存在している。三ノ郭からは南方に興福寺五重塔が望める。本郭、二ノ郭、三ノ郭が城の中心であるが、これ以外にもそれぞれの尾根上に20以上の曲輪を配し、すべての尾根筋先端には堀切が設けられている。


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